DADA Journal(だだ・じゃーなる)・・・
「湖を愛するすべての人におくる」をテーマに発行される、滋賀県湖東・湖北地方の情報紙。主に読売新聞に折り込まれ、20年近くに渡って地元の情報を発信してきた。様々な観光スポットでも配布され、県内外問わず、多くの支持者を集めている。喜多充の母・良子もコアなファンの一人。発行所は(有)北風寫眞舘[彦根市本町2-3-3]、編集人は杉原正樹。2006年現在、発行部数32,000。第2・第4日曜日の毎月2回発行。喜多はそのうち月1回コラムを担当。

「唄屋の縁」WEB版公開にあたって・・・
 以前からたびたび「滋賀県外では連載は読めないの?」といったお問い合わせをいただいてきました。しかしその時、その地方でしか触れられない価値っていうのもあるし、他の記事も含めてDADAの紙面に触れてもらいたいという思いもあって、単独でWEB公開をする気は正直ありませんでした。そして連載スタートから2年が経ちました。考えてみればこの2年は、アマネがCDをリリースしてこなかった2年でもあります。2年間社会に対して全くメッセージを送れていなかったことを考えると、このコラムが僕にとって重要な発表場所であったんだと再認識します。そこで今回、この場でもコラムを公開しようと思い立ちました。紙が得意とすること、またWEBが得意とすることは同じ活字や写真を用いるメディアであっても全く違います。これからもDADAとWEB、両方で「唄屋の縁」を楽しんでいただけると幸いです。様々な方に、喜多充の《出会い》に触れてもらいたいです。発行の北風寫眞舘に大感謝! 2006年12月1日 アマネ・喜多充

・DADA紙上に1ヶ月前に掲載されたものまでを公開していきます。
・文章や写真は発行当時のまま公開いたします。
・WEB版編集時に気付いたことがあれば、補足やリンクを追加していきます。
目次

NEW!!第50回 ~幸せに包まれる瞬間 -HFPイン多賀を終えて-~ 2008年10月12日vol.452掲載
NEW!!第49回 ~おらが村、幸せの森で歌う -HFPイン多賀開催-~ 2008年9月14日vol.450掲載
第48回 ~町は唄とともに、唄は町とともに~ 2008年8月10日vol.448掲載
第47回 ~深坂を上らなくなって十二年~ 2008年7月13日vol.446掲載
第46回 ~正樹くん、おめでとう。-Nearly Equalから十年-~ 2008年6月22日vol.445掲載
第45回 ~日本人にしかできない融合 -√thumm-~ 2008年5月11日vol.442掲載
第44回 ~こんな気持ち、伝えるために Ⅱ~ 2008年4月27日vol.441掲載
第43回 ~こんな気持ち、伝えるために Ⅰ~ 2008年4月13日vol.440掲載
第42回 ~僕の人生を支えたキャストが大集結~ 2008年3月9日vol.438掲載
第41回 ~湖東から探検家を生み出そう!~ 2008年2月10日vol.436掲載
第40回 ~ライヴハウスも、いいもんだな~ 2008年1月13日vol.434掲載
第39回 ~原点に帰ろう Ⅲ~ 2007年12月9日vol.432掲載

第38回 ~原点に帰ろう Ⅱ~ 2007年11月11日vol.430掲載
第37回 ~原点に帰ろう Ⅰ~ 2007年10月14日vol.428掲載

第36回 ~アマネ、初の長浜ライブ~ 2007年9月9日vol.426掲載
第35回 ~初の試み、特別先行試聴会~ 2007年8月12日vol.424掲載
第34回 ~僕がハムだった時代~ 2007年7月8日vol.422掲載
第33回 ~雨を乞うた日本人~ 2007年6月10日vol.420掲載
第32回 ~8㎝CDだった「あの頃」の音楽~ 2007年5月13日vol.418掲載
第31回 ~走れ!多賀町ナンバー~ 2007年4月8日vol.416掲載
第30回 ~大人になったことを告げてくれた芝居流通センター~ 2007年3月11日vol.414掲載
第29回 ~命の襷を受け取って~ 2007年2月11日vol.412掲載
第28回 ~二〇〇七年正月、実家のよびしにて~ 2007年1月14日vol.410掲載
第27回 ~人生のバイブル「まんが道」との出会い~ 2006年12月10日vol.408掲載
第26回 ~きみもミュージシャン! 子供たちとの唄作り~ 2006年11月12日vol.406掲載
第25回 ~アマネ、デビュー五周年を迎える~ 2006年10月8日vol.404掲載
第24回 ~二十代最後の夏が、終わった~ 2006年9月10日vol.402掲載
第23回 ~お盆にリンネを考える~ 2006年8月13日vol.400掲載
第22回 ~雨の日に思い出す、山賊の歌~ 2006年6月25日vol.397掲載
第21回 ~僕らを突き動かす、手造りの魂~ 2006年5月28日vol.395掲載
第20回 ~サーンヨーレ、サンヨレヨー~ 2006年5月14日vol.394掲載
第19回 ~日本語ロックのはじめ~ 2006年4月9日vol.392掲載
第18回 ~過去と未来を自由に行き交うディーバ~ 2006年3月12日vol.390掲載
第17回 ~親元を離れて丸十年を迎える正月に~ 2006年1月22日vol.387掲載
第16回 ~ジャズを教えてくれたおばはん~ 2005年12月11日vol.384掲載
第15回 ~新時代の幕開け、筝少女現る~ 2005年11月27日vol.383掲載
第14回 ~実りの秋に飽きない秋唄~ 2005年10月9日vol.380掲載
第13回 ~映像と音楽と~ 2005年9月11日vol.378掲載
第12回 ~自分の役割 -2005びわ湖放送高校野球ハイライトソング集を聴いて-~ 2005年8月28日vol.377掲載
第11回 ~唄屋の夏唄・後編~ 2005年8月14日vol.376掲載
第10回 ~唄屋の夏唄・前編~ 2005年7月24日vol.375掲載
第9回 ~発見した新たな刺激~ 2005年7月10日vol.374掲載
第8回 ~アンプラグドを感じて~ 2005年5月22日vol.371掲載
第7回 ~ビートルズを歌おう~ 2005年4月24日vol.369掲載
第6回 ~ピアノ弾きに憧れて~ 2005年3月27日vol.367掲載
第5回 ~エンヤトットってナンヤ?~ 2005年3月13日vol.366掲載
第4回 ~近づく春、美しい日本との出会い~ 2005年1月23日vol.363掲載
第3回 ~中学時代の恩師に感謝~ 2004年12月26日vol.361掲載
第2回 ~フォークにどっぷり~ 2004年11月28日vol.359掲載
第1回 ~唄屋の音楽開眼~ 2004年10月24日vol.357掲載

第50回 ~幸せに包まれる瞬間 -HFPイン多賀を終えて-~ 2008年10月12日vol.452掲載
 九月二十七日、「ハッピィ=フォレスト=プロジェクト(HFP)2008イン多賀」を無事に開催することができました。連日ぐずついたお天気で急に冷え込む中、この日だけは晴天に恵まれました!(こういうイベントはやはりお天気次第ですなぁ。)お陰さまでたくさんの方にお越しいただきました。ライヴ会場の森のドームでは、僕らアマネを含む八組のミュージシャンが出演し、それぞれの思いを演奏に乗せて森に響かせていました。司会者の進行も大変楽しく、笑い声が絶えませんでした。一方では県内外からおいしい飲食物やハンドメイドの雑貨・家具などが集まり、来場者を賑わせていました。人気店には長蛇の列も。ヘアーカットやマッサージまでありましたな。自然の中を子供たちが走り回っていたり木の実を捕っていたり。都会では目にしないこの瞬間に、一筋の光を見ました。
 ふと、幼い頃の運動会や夏祭りに似た感覚を思い出しました。「こういうの、久しぶりやな・・・」。最近はイベントを仕事にしてしまっていて、システム化された運営や進行に慣れてしまっていたのですが、地元の様々な世代の人が集まって「あーでもない、こーでもない」と手作りし、その中からスタッフ間やお客さんとのコミュニケーションが生まれていく素晴らしさを体感しました。そこに自分がこの町出身であるという思い入れも加わり、「これは自分たちにしかできないことなんだ」という気持ちが込み上げてきました。このような形でこの森で歌う機会をいただいたことに、すごく感謝しています。ひと言では語れない幸せを感じました。
 HFPにはまだまだ世の中に放っていかなければならない使命があるように思います。人間が向き合わなくてはならない自然とのこと、エコのこと、食のこと、ヒトとのこと。これらのことを滋賀県から発していくことは、僕にとって非常に重要なことだと感じました。これからも唄を通じて、ヒトと関わりながら、幸せに包まれる瞬間について考えていこうと思いました。



喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
http://www.uta-ya.com/

アマネ「青少年を育てる市民のつどい」ゲスト出演決定
十一月十六日(日)東近江市横溝町・東近江市立湖東中学校体育館
入場無料 十三時受付 十三時半開会 十五時半頃出演予定
お問い合わせ 〇七四九-四五-〇九五〇(東近江市青少年育成市民会議湖東支部事務局)

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第49回 ~おらが村、幸せの森で歌う -HFPイン多賀開催-~ 2008年9月14日vol.450掲載
 歌う場所に飢えていた僕は十二年前に多賀を離れ、宝塚の大学に進み、以来大阪を中心にステージを重ねてきました。滋賀は大阪や京都に比べ演奏する場所が圧倒的に少なく、地元で演奏できる機会は毎年一、二回。自分の思いとは裏腹に、非常に少ないのが残念な現状です。
 そんな状況の中で我々アマネは、今月地元・多賀で演奏させてもらう機会をいただきました。しかも会場は僕の実家がある多賀町富之尾の隣字、藤瀬という場所です。まさに「おらが村」での演奏ということになりますね。うれしい、とてもうれしいです。「育ててもらった町に恩返しをしたい」、年齢を重ねるにつれてこういった思いは次第に大きくなってきました。町に対して演奏でどれだけお礼が言えるかわかりませんが、感謝の気持ちを込めて歌いたいと思います。
 僕がこういった思いで臨むのは、「ハッピィ=フォレスト=プロジェクト(HFP)2008イン多賀」。来る九月二十七日に、多賀町藤瀬・高取山ふれあい公園というキャンプ場の「森のドーム」周辺で、大自然に囲まれて開催されます。総勢八組のミュージシャンが出演、おいしいフード&ドリンクや個人作家さんによる雑貨・工芸品なども販売が予定され、そこにいるだけでほんわかするような時空間になりそうです。また環境に配慮して、参加者の皆さんにはマイ箸・マイ皿をご持参いただき、ゴミの持ち帰りをお願いされています。森にとっていいことは僕らにとってもいいこと、演奏を楽しみながら森の命のことをみんなで考えていけるのは、これまたハッピィなことですね。
 やっと地元に歌いに帰れます。いい音、うまい味、素敵なハンドメイド、そしてあなたと、故郷の大自然に包まれます。おらが村、幸せの森で歌います。ぜひお越しください。

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
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「Happy Forest Project 2008 in TAGA」開催
九月二十七日(土)多賀町藤瀬・高取山ふれあい公園(森のドーム周辺)
前売二〇〇〇円(公園入場料含む)、当日二〇〇〇円(公園入場料含まない)
お問い合わせ:HFP実行委員会(080‐5364‐2415・ヒライ)
http://www.h-f-p.net/

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第48回 ~町は唄とともに、唄は町とともに~ 2008年8月10日vol.448掲載
 公私に渡って長年お付き合いさせていただいている和魂洋才バンド「マホロバガクザ」が、七月三十日にニューアルバムをリリースしました。その名も「ならとろじ」。リーダーの喜多寧さんは正真正銘の奈良人で、僕が知る中で最も奈良に愛着を持って活動されているお一人であります。「ならとろじ」、何ていい響きなんだろう。地名を一つ取ってみてもそこには古の歴史があり、多くの人々が口にしては磨き上げてきた音(オン)と誇りがあります。地名という最も気軽に誰もが口にできる名詞をタイトルに引用するなんて、粋で、それでいてとても覚悟のいることだと感じました。町に対する思いを相当凝縮して詰め込んだに違いありません。
 以前から唄屋と自ら名乗り、唄を書き、歌い、そして唄に悩み続けてきたわけでありますが、この作品を聴いて一つの答え、いや、一つのヒントを見つけました。この「ならとろじ」には町がありました。町には歴史がありました。歴史には人がいました。人は歌ってきました。
 唄に悩む一つの要因として、東京を中心としたメディア中心の商業音楽システムが挙げられます。町で音楽が鳴っていても、それが町の音楽ではないことを大変危惧してきました。「唄屋」は自分自身を特定する呼称ではなく、八百屋や酒屋のような町に必要な営みとして名付けたものでした。町に一人は唄屋が必要なんじゃないか、それが僕の持論です。この「ならとろじ」を聴いて、町の在り方や唄の在り方を改めて考えさせられました。マホロバガクザが奈良という町を愛し、奈良で唄を書き、奈良に誇りを持って歌う、当たり前のことが当たり前にできなくなった時代に、やっぱり当たり前のことが一番大切なんだというヒントをいただいたような気がしました。
 悔しいな。滋賀に住んで、滋賀で唄を書いて、滋賀で歌っていきたいな。当たり前のことだと理解しながら、当たり前にできないこの葛藤。「町は唄とともに、唄は町とともに」、僕の永遠のテーマであり永遠の目標を、マホロバガクザは等身大でやってのけたのでした。

マホロバガクザ・アルバム「ならとろじ」(2008)[XQDR-1005] http://www.mahogaku.com/

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
http://www.uta-ya.com/

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第47回 ~深坂を上らなくなって十二年~ 2008年7月13日vol.446掲載
 僕は最近まで、三年間の米原高校時代を最も不遇な時代だったと感じながら過ごしてきました。多賀中学校時代はそこそこ勉強もでき、部活の野球も通っていた空手も充実、音楽も楽しくできていたし、生徒会長まで務めさせていただき、アメリカへホームステイにも連れて行っていただけた、本当に申し分ない三年間だったのです。その直後の三年間のこと、学力もないのに無理をして選んだせいか、どうもしんどかった思い出しか出てこないのです。音楽をやってもあまり善くも思われず、テストは追試の嵐、いくつかの赤点も頂戴しながら悶々と過ごしておりました。わりと何でもうまくやってきた自分にとって、何をやってもうまくいかなかった時代だったのです。何とか卒業させてもらった、といった感じでしょうか。長年の間、僕だけがうまくいかなかった高校時代だと思っていました。
 今年に入り、高校時代の友人と何度か会う機会に恵まれました。そこで話をしていますと、他の数人も同じような気持ちを持っていたと証言してくれました。すごく驚きました。卒業して十年以上も僕だけが感じていた重荷、みんなも背負っていたの?と、一気に気持ちが楽になりました。憧れを抱いて入った米原高校、裏切られたかのように疑念を抱いた米原高校、しかしそれは決して学校の方針が自分に合わなかっただけではなく、自分自身の精神状態や時代の流れもあって、様々な要素が複雑に絡み合って不遇の時代だと感じさせたようです。今ではそんな時代を通ってきたことも、自分自身にとって大変重要な道だったのではないかと思えるようになってきました。
 深坂(*)を上らなくなって十二年が過ぎました。暦も一回りすると、その時代の印象も異なってきます。何よりそこには仲間がいました。古い仲間はずっと仲間、米原高校を卒業したこと、この仲間に出会えたことを今では本当に感謝しています。八月十六日、普通科全体では卒業して初めて同窓会を行います。もうすぐ、あの頃の仲間に会える。

*米原駅東口から米原高校への通学路に存在する坂道。雪の日には滑りやすく、滑った時には大学合格が危ぶまれるなどという伝説も多く、同校出身者にとって思い出の場所。

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
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九月二十七日(土)多賀町藤瀬・高取山ふれあい公園「Happy Forest Project 2008 in TAGA」出演決定 http://www.h-f-p.net/

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第46回 ~正樹くん、おめでとう。 -Nearly Equalから十年-~ 2008年6月22日vol.445掲載
 五月十八日、友人の結婚式の為に彦根に戻りました。友人の名は坂上正樹、年は僕より一つ下ですが、小学生の頃からよく遊んだ地元・多賀町富之尾の仲間です。彼がどんな方とお付き合いしているとか、そういったことはほとんど伺ってこなかったものの、彼が夢中になっていることに興味を覚えたり、僕が熱くなっていることをサポートしてくれたり、長年共に刺激し合う形で今日までやってきました。僕がギターを買ってもらって歌い出したのが小学五年、彼もお兄さんの影響で小学生の頃からギターやらドラムやらを演奏し出し、楽器を持ち寄っては互いのモノマネ演奏を発表し合っていました。僕はなんちゃってな感じでギターを弾いておりましたが、彼の演奏力は抜群で、同時に秀作も次々と生み出していました。
 大学に入りそれぞれ兵庫と岐阜に別れてしまったものの、僕は彼と一緒に音を出したいと願っていました。そこで長期休暇を利用してバンドを組み、彦根市民会館でライブを行いました。一九九七年八月、僕が二十歳、彼が十九歳の時のことです。さらに翌年には大阪でもライブを行い、CDを制作しました。「Nearly Equal」というバンドでリリースした「NAVIGATION」というアルバムです。彼はこのレコーディングでも類稀な才能でギターを奏で、大きな力を発揮してくれました。僕が作った唄を非常によく理解してくれて、力強く、それでいてバラエティーに富んだ作品群に仕立て上げてくれました。同郷だと、何事も話が早いんですよね。余計な説明無しにスタートできる居心地の良さ、キラリと光る多賀者センス。互いに多くを語らずして尊敬し合い、高め合える数少ない仲間の一人です。
正樹くん、おめでとう。今回の結婚、自分のことのようにうれしいです。あなたの演奏技術、メロディセンス、そして人間性、全てを敬愛しています。それらを理解し、体いっぱいに受け止めてくれる方に巡り合えたんですね。会場で流してくれた「Nearly Equal」時代の楽曲、久々に聴いて我ながら感動しました。あれから十年か。僕ら、十年も前にかなりいい音楽作ってたね!再確認いたしました。これからもその素晴らしい感性で、夫婦生活やお仕事、音楽活動に取り組んでいってください。
 多賀という田舎で共に培った二人の音楽性、それを地元で披露し恩返しすることも僕らの使命かもしれないですね。僕らを作ってくれた地元で、いつか「Nearly Equal」を復活させるか!?

Nearly Equal「NAVIGATION」(2002) [DR-0002]


10年前、彦根市民会館にて(左:筆者、右:坂上正樹)

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NAVIGATION/Nearly Equal
第45回 ~日本人にしかできない融合 -√thumm-~ 2008年5月11日vol.442掲載
 最近ライブハウスでの演奏を再開しております。僕らアマネは音響設備がないところでも歌えることから、ライブハウスへの出演に特にこだわっていませんでした。しかしながらライブハウスは、様々なミュージシャンたちとの出会いなどもあって、とても刺激的な場所であります。先日大阪のライブハウスで、「√thumm」さんというお三方とご一緒させていただきました。エレクトロニカというテクノやクラブミュージック、電子音楽をベースにした演奏をされているのですが、初めて耳にした僕に斬新で強烈な印象を与えてくれました。普段唄モノの音楽を演奏したり聴いたりしているので、インストゥルメンタルには苦手意識がありました。しかし√thummの音楽は、なぜか唄が聴こえてくる感じがして、僕が知っている他のインストゥルメンタルとはどこかが違いました。すごく洗練された音楽センス、クールなビート、その中で奏でられる生ピアノの旋律がとても懐かしくて温かくて耳にこびりつきます。日本のどこで育てばこんな音楽ができるんだ?これが三人のサウンドを耳にした時の感想です。
 元来日本人には、色んな文化を自由に解釈して取り入れる感覚があると感じていました。クリスマスもお正月も結婚式もお葬式も、信教に関係なく取り組むところなんて正にそうで、このミクスチャー感覚は日本人の良さだと考えています。おそらくテクノなんかはヨーロッパで培われたものでしょう。その中で日本らしい心地いい旋律が、完全に成立した形で歌い出すんです。√thummのサウンドはこの日本人にしかできない、日本人ならではの和洋折衷なんですね。日本人の感覚を更に進化させた、オンリーワンのミクスチャーだと感じました。
 ところで、こんな音楽を生み出す人は、どこで育ったんだ?という大きな疑問が後日解決いたしました。本人たちにお伺いしたところ、お一人は奈良、そしてお二人は滋賀県出身なんですって!能登川と近江今津だそうで、大変驚きました。滋賀県にあんな音楽を生み出す土壌があったのか!滋賀県も捨てたもんじゃないな。滋賀県も交通の要所で様々な人の行き来がある土地、おそらく融合のうまい県民でもあるのでしょう。これからも滋賀県民ならではの音楽を生み出していこうと、強く感じた出会いになりました。

「√thumm」 http://aran.parallel.jp/thumm.html


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第44回 ~こんな気持ち、伝えるために Ⅱ~ 2008年4月27日vol.441掲載
 三月六日、卒業式の練習に励む東近江市立湖東中学校の三年生が集まる教室に伺いました。昨年の全校コンサート以来の僕の登場に一同は驚きを隠せない様子、大きな拍手で迎えていただきました。卒業までの学年集会に一度来ていただけたら・・・、と先生方にお誘いいただいていたのですが、ちょうど全ての入試を終えられたこのタイミングで寄せていただくことができました。これから巣立っていく彼らに何を伝えられるかわからなかったのですが、僕が旧湖東町で生まれ育った九年間をはじめ、どういう思いで今歌い続けているのかということを、来た道その時々にまつわる唄を交えながら二時間に渡って語らせていただきました。中学の時に作った学級歌や、英語の授業の時に歌った洋楽なんかも歌って。大きな岐路の一つである義務教育の終了を控え、どんなことを振り返り、どんな未来を想像しながら聞いてくれたのかな?
 そしてどうしても届けたかった唄、『気持ち』を歌いました。三年生の中の一人の女子生徒と、十時間をかけて制作した大切なメッセージです。演奏中、旅立つこの瞬間と歌詞がオーバーラップし、涙をこらえる生徒も見受けられました。よかった。湖東中生と出会い、この唄を一緒に作り、みんなの前で歌うことができて、本当によかった。
 学校を後にして大阪に戻った僕は、この唄をアマネのメンバーに聴かせました。すると二人は感動し、卒業生全員にこの唄のCDをプレゼントすることになりました。みんな、この唄のように友達を大切にな!後悔のない人生を送ってくれよ!こんな気持ち、伝えるために、CD一枚一枚、思いを込めて梱包しました。何とか卒業式までに届けることができたよ。みんな、卒業おめでとう!




気持ち
作詞 田中涼
(平成十九年度湖東中学卒業生) 補作詞・作曲 喜多充

「おはよう」って言えなかった 「さよなら」って言えなかった
言いたかった 言えなかった 「おはよう」「さよなら」

「ありがとう」ってつぶやいた 「ごめんね」ってつぶやいた
届けたい 届かない 「ありがとう」「ごめんね」

近くても離れてしまった この距離を縮めたい

こんな気持ち 伝えるために
言いたくて 言えなかったこと 手紙に書くよ
気持ち・・・、みんなに出会えて 本当によかった


「おはよう」ってもう言えるよ 「さよなら」ってもう言えるよ
たくさんの思い出に 「おはよう」「さよなら」

「ありがとう」って大切ね 「ごめんね」って大切ね
大切な友達に 「ありがとう」「ごめんね」

遠くてもそばにいるような 強い気持ちを持ちたい

こんな気持ち 伝えるために
言いたくて 言えなかったこと 手紙に書くよ
気持ち・・・、みんなに出会えて 本当によかった

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第43回 ~こんな気持ち、伝えるために Ⅰ~ 2008年4月13日vol.440掲載
 雪の降る三月のある日、昨年十月に全校コンサートを行った東近江市立湖東中学校を訪れました。卒業式を控えるこの時期に訪ねたのは、中学三年生のある女子生徒に会うためです。この生徒は僕に、コンサートがとても楽しかったと手紙を寄せてくれていました。年が変わり一月六日、探検の殿堂でコンサートを開催した時にも聴いてくれて、「今日のライブは短い時間だったけど、すごく満足できる時間になりました。」という感想と、一編の自作の詩を添えた手紙をくれました。コンサート以来、三年生が卒業するまでにこの学年と共通の思い出が作れないかと思案していた僕は、中学校の林栄次教諭に「彼女の詩を唄にしたい」と申し出ました。学校側も快諾してくださり、特別に楽曲制作を行う教室と時間を提供してくださったのでした。
 僕が来校したことが知れ渡ると、気になって授業に集中できなくなるということで、お昼ご飯中にそーっと校舎に入り、学校側にご用意いただいた教室で午後一時に彼女と会いました。彼女の詩を唄にしたいと申し出ましたらとても喜んでくれて、二人での共同制作が始まりました。おそらく彼女はワクワクしてくれているのですが、緊張のあまり言葉にならないといった状況でしょうか。言いにくいこともあると思いましたので、あれこれ世間話をしていきながら詩に託した思いや心の動きを聞き出していきました。原型のまま曲をつけるというのは難しい部分も感じていましたので、もともとお送りいただいていた純粋な言葉を崩すことなく、音楽の詞としての再構築をしていく作業を繰り返しました。
 午後七時、詞は何とか完成したのですが、曲が三割くらい残っていた段階で彼女を帰しました。フルコーラスを聴きたかったと思うのですが、これ以上遅い時間になってしまうわけにはいかず、「今夜中に必ず完成させるね」と約束をして別れました。ほとんどノンストップで六時間、一つ一つの言葉の背景や思いを確認する作業は、十五歳の少女には大変な重労働だったと想像します。「いい唄にするからね」、心の中で唱えながら一人で作業を再開しました。教室に残った僕は、彼女の体験や思いを違うニュアンスに変えてしまうことのないように、丁寧に慎重に組み立てながら生命を注ぎ込みました。持ち込んだパソコンに録音し、ついに完成。学校を後にしたのは午後十一時、実に十時間をかけて湖東中学三年生との初のコラボレーション、『気持ち』という楽曲が完成したのでした。



喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
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第42回 ~僕の人生を支えたキャストが大集結~ 2008年3月9日vol.438掲載
 二月九日、あるお披露目の為に京都でパーティーを開催しました。当日はあいにくの雪となりましたが、全国各地から一五〇名以上の方にお集まりいただきました。このような規模でパーティーを開かせていただくのは、僕の人生の中で初めてのこと。事前よりどなたがお見えか存じ上げていたものの、これだけの方に一堂に会していただいた光景はとにかく圧巻でした。僕の人生のあの場面でお付き合いいただいた方、この場面でお支えいただいた方、別々に知り合った方々が同じ時間に同じ空間でお顔を合わせていただくわけですから、とても不思議で感動的な場となりました。小さい頃から遊んだ友達、一生懸命ご指導くださった小学校や中学校時代の恩師、一緒に勉強や部活に励んだ高校時代の友人、将来の悩みなどを相談し合いながら芸術に情熱を注ぎ合った大学時代の友人、音楽関係者や映像関係者、身内までもが勢揃いし、大スペクタクルパーティーとなったのでした。
 人生三十年の節目の年に、こうしてお世話になった方々にお集まりいただけたことは、僕にとってとても重要な一ページになりました。台湾から駆けつけてくれた友人と後日電話で話した折、彼はこう言いました。「この顔ぶれが次に揃うのは、葬式の時とちゃうかぁ?」と。「いやいや、僕の葬式でもこの顔触れは無理やでぇ」、続けてこう答えました。正に今しかありえない再会、僕という舞台の今しかありえないオールキャストの集結で、貴重な瞬間でしたね。葬式と言わず、またやりたいなぁ。あちらこちらのグループで、「次は高校の同窓会やろうや!」とか、「また一緒にイベントをやろう!」なんて声が挙がり、少し遠ざかっていた方々とも改めて距離を縮められたことは今回の大きな収穫でした。今までの関係が、年賀状だけでしか繋がっていないのは寂しいことだと思い続けていましたから。一堂に会することは難しいでしょうが、これからもどんどん会っていきましょう!
 僕は皆さんに育てていただいたことを痛感すると共に、この仲間とまた新たな一歩を踏み出したいという希望を抱きました。ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました。でもやっぱり全員で会えたら楽しいし、何にも関係ないけど一年後に同じメンバーで会を催そうかな?怒られるかな?
今日も僕は、皆さんのお陰で生かしてもらっています。



喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
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第41回 ~湖東から探検家を生み出そう!~ 2008年2月10日vol.436掲載
 一月六日、僕が始まった場所・旧湖東町に再び訪れました。昨年十月に湖東中学校で全校コンサートを行って以来、様々な方面で反響があったようで、今回は「西堀榮三郎記念探検の殿堂」でアマネのミニライブを行わせていただくことになりました。こちらには現在、昨年の湖東中文化祭において生徒によって製作された巨大貼り絵が展示されていて、ミニライブはこの展示を記念するためのものでもありました。その絵は、広い壁一面を覆ってしまうほどの大きさで、よく見るとそれを構成しているのはなんと新聞チラシ!印刷された人の顔や商品もそれぞれの役割を担い、ド迫力の荒波に向かう探検船を描いています。大変な作業でしたなぁ。横八メートル、縦五メートル半に及ぶこの作品、その名も「有言実行-荒波を越えて-」。文化祭では我々アマネが「僕らの毎日、大波小波」と歌う「マンマンデイ」という曲をバックにお披露目されたそうで、その絵の前での演奏には自然と力がこもります。急な催しにもかかわらず、たくさんの中学生や地元の方にお集まりいただき、たった四曲の演奏でしたが今年のスタートを盛り上げていただきました。
 演奏後、学芸員の方とお話をさせていただくことができました。この施設に対する僕のイメージというのは、「南極のマイナス二十五度が体験できる観光スポット」というものでした。しかしお話をさせていただくにつれて、その観光スポットとしての位置付けは、一つの側面に過ぎないということがわかってきました。こちらでは普段「キッズ探検倶楽部」をはじめとして、子供たちに向けた実験学習、製作活動、あるいは現場に赴いてのフィールドワークなどを実施されているそうです。冒険心や好奇心をくすぐるテーマのもと、未来の「探検家」を育成するべく地域に根ざした取り組みをされています。「アマネさんの演奏を体験することも探検の一つなんですよ」ともおっしゃっていただきました。未知の世界を体験し、自らが切り開き、そして到達することはどんなジャンルであっても探検なんですね!探検と聞けば「水曜スペシャル・川口浩探検シリーズ」を思い浮かべるのは僕の世代がギリギリかと思いますが、あの雰囲気しかイメージできないとは何と浅はかなことか。
 湖東地域から本当に探検家が生まれるといいですね。子供のときから「探検」が身近にあるのとないのとでは大違いですから、可能性は他の地域よりも高いんじゃないですか?こちらの体験学習を通じて、様々なジャンルの探検家が湖東から登場してくれることを心よりお祈りしております。

西堀榮三郎記念探検の殿堂 http://tanken-n.com/



喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」
http://www.uta-ya.com/

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第40回 ~ライヴハウスも、いいもんだな~ 2008年1月13日vol.434掲載
 あけましておめでとうございます。なんと平成も二十年目を迎えてしまいました。この時代も一くくりできなくなってしまいましたね。本当に早いもので。
 さて昨年末、僕は「麗蘭」のライヴを観るために、京都の磔磔というライヴハウスに行ってまいりました。「麗蘭」というのは元・古井戸でRCサクセションの「仲井戸 Chabo 麗市」と、元・ストリートスライダーズの「土屋 蘭丸 公平」という二人のギターユニットです。二人はいつもブルーズを基調にしながら、驚愕のツインギターと熱いメッセージを届けてくれます。特に今回はバンドを従えないアコースティックセットで、声もギターもまるで肌触りまで感じ取れるようなシンプルサウンドでした。ごまかしがきかない環境下で、お二人の温かさや思いの熱さを味わいながら楽しませていただきました。オーディエンスは着席形式でしたが、パーカッシブな二人のギターに会場は高揚。外は寒い冬だというのに自身は汗だく。Chaboは会場を煽り、蘭丸もクールな顔をしてギターで観客を震えたたせます。年末の磔磔公演はもう恒例となっており、例年足を運んでおられる方は「これを観なきゃ年を越せない」くらいの感覚でいらしていて、四夜連続で行われる公演に「全部行ってるんちゃうかぁ?」という方もお見受けしました。季節と街と音楽が切り離せなくなっている瞬間を体験しました。わたくし事ですが、最近ライヴハウスが嫌いで、演奏するも聴くも、そういった会場から遠のいている自分がいました。それは昔のライヴハウスではなくなってしまったから。その場所で担う役割を見失っていたり、やりっぱなしの公演を繰り返していたり、スタッフのサービス精神が向上できていなかったり。そんなこともあって僕にとって居心地のいい場所ではなくなってしまっていたんですね、最近のライヴハウスは。しかし「麗蘭」のライヴは、まさにライヴハウスでしか味わえない味でした。これぞライヴハウスの醍醐味、って感じ。目と鼻の先、お二人の汗や唾も確認しながらこってり二時間の本編を堪能しました。ここで終わりと思いきや、そこから一時間のアンコール。熱い。熱すぎる。御年五十七歳と四十七歳。凄いなぁ。終盤、Chaboさんが僕の膝の上に座って演奏するというハプニングもあって、大大満足のライヴとなりました。
 ライヴハウスも、いいもんだな。今年は見直して、ライヴハウスの演奏も頑張ってみようかな。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

麗蘭・ミニアルバム「1+1(ONE PLUS ONE)」(2007)[XQBU-1004]

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第39回 ~原点に帰ろう Ⅲ~ 2007年12月9日vol.432掲載
 僕は、原点に帰ったんだ。
それは十月三十一日の湖東中学校でのコンサートを終え、しばらくしてから、湖東中の生徒から届いた感想文を読んで実感したのでした。九歳まで居た湖東町に、僕が本当に居たという事実は、家族の記憶と住民票の記録しかない中、それを改めて確実なものにしてくれたのは、紛れもなく中学生たちの言葉でした。「アマネのコンサートを聞いてぼくは、みつるさんは湖東になにかしようと思っていたとゆうのを聞いてすごくかんどうした。ぼくも湖東におんがえしをしたいです。」(一年二組・男子)、「私も第三出身です!」[注:第三=湖東第三小学校](一年一組・女子)、「アマネのボーカルの人は私と同じ長で生まれたのでびっくりしました。」[注:長=旧湖東町大字長](一年一組・女子)、そうだよ、僕もみんなと同じ湖東町で生まれ育ったんだよ。大阪で僕は大きく呟きました。故郷ってものは、時として大きすぎて重荷になったり、逃げたくなる存在になることもあるのですが、生徒たちのこの言葉は、僕に勇気と更なる階段を与えてくれました。当然のことながら、僕が彼らと一緒に湖東町で過ごした時間はありません。二十一年前にこの町を後にした僕は、彼らが生まれ育ったことを知らずに今日までやって来ました。なのに湖東中生たちは、二十年以上も前に同じ湖東町に生まれ育った僕の唄や話に共感を覚えてくれました。何らかの驚きと興味を覚えてくれたことに、とても報われている僕がいます。原点と言いながらその記憶は年々薄れ、故郷が思い込みのような存在に化していくことに歯止めをかけてくれました。帰ってきたんだ、そして帰れる場所があったんだ。あの時の友達がいなくても、あの時の風景がなくなっても、僕にとっての故郷がそこにあることを湖東中生たちは教えてくれたのでした。
 帰れるんだね。帰る場所があるんだね。踏み出すことに、もうためらいはありません。長年積み上げたことを失ったところで、僕には帰る場所がある。そのときは一から始めればいいんだ。始まった場所にぶらり降り立てば、コンパスが次の方向を指し示してくれることを気付かせてくれた、そんな湖東中学校コンサートになりました。
 迷ったなら、原点に帰ろう。



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第38回 ~原点に帰ろう Ⅱ~ 2007年11月11日vol.430掲載
 そうだ、原点に帰ろう。
 十月三十一日、僕が始まった町・旧湖東町にある湖東中学校で全校ライブを行いました。今の中学生に僕たちアマネの音楽がどんなふうに響くか、当日までは大変不安な日々を過ごしました。今回のライブの発起人、林栄次先生とは十五年来のお付き合い。僕が中学三年生のとき、多賀町が支援してくださったアメリカでのホームステイの旅でご一緒させていただきました。町内在住の中学生四名と社会人六名が対象で、それまで家族以外と旅行に行ったことがない僕にとって、とても大きな冒険でした。林先生はじめ社会人チームの皆さんは中学生の僕を子ども扱いではなく、一人の人間として対等に扱ってくださいました。あのときの林先生とおよそ同じ年齢になった僕が歌う相手は、当時の僕と同じ中学生。本番直前、僕はふとあの時接してくださった林先生を思い浮かべました。「あのとき接してくださったように中学生に語りかけよう」、そう唱えながら僕はステージに上がりました。不安と期待の中で最初の曲を歌い終えたとき、体育館に大きな拍手が響き渡りました。「あぁ、よかった・・・」
 それから二時間以上にわたり、生徒たちの大きな手拍子、大きな歌声、大きな拍手に支えられながら、湖東町を離れた二十一年前を振り返りました。多賀町の親元に引っ越すかどうか母が悩んで、「いいよ」と後押ししたのは小学二年の僕でした。大好きな町を離れるのは嫌でしたが、姉が中学に入るタイミングで一番いいと自分なりに考えたのでしょう。それでもこの二十一年間、「~たら」「~れば」という言葉は常に僕に付きまとってきました。最後の拍手と歓声に包まれたとき、その言葉はもう要らなくなりました。この町に残っていれば、このようなコンサートは実現できなかったのですもの。今は僕が始まった大好きな町に、微力ながら恩返しができたような気がしています。運命的な出会いが必然を生み、愛情溢れる皆さんの協力によってまた新たな出会いをいただいたコンサートになりました。湖東中の生徒の皆さんとはまだ始まったばかり、十五年とか二十一年なんて遠すぎるので、近い将来にステキな必然を一緒に生み出しましょう。
 ありがとう湖東町。ありがとう湖東中学校。



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第37回 ~原点に帰ろう Ⅰ~ 2007年10月14日vol.428掲載
 僕は昭和五十二年、旧湖東町長で生まれました。そして小学三年生で多賀町に引越しするまでの九年間をこの地で過ごしました。生まれてから九年間の経験や記憶というのはやはり人間にとって重要なもので、僕にとってもこの間の出来事が自分を形成する大きなベースになっていると感じています。僕が育った家は木造長屋の町営住宅、今はその形さえ存在しません。草むらと化したその場所に、息を潜めるようにひっそりと小さなお宮だけが生き続け、かつてそこに人の営みがあったことを物語っています。湖東町に残りたかった気もしますが、湖東町に残らなかったから今の僕がいる訳で、過去のことを「~だったら、」「~していれば、」なんて言ってみてもしょうがなく、その結果だけがここにあります。当時は貧乏な生活でしたし、今お付き合いをするほどの友人も作ってきませんでしたが、毎日が本当に楽しい湖東町時代でした。とにかくいい場所で育ててもらったなぁと思っています。二年間しか通学しなかった湖東第三小学校でしたが、時折「絶えぬ流れは、愛知の川♪」なんて校歌を鼻歌してしまいますし、悩んだりしんどくなった時には「やろう、くじけず、最後まで」と学校のスローガンを唱えながら乗り切ることもしばしばです。たかだかですが、されどであり、やはりの湖東町九年間だったことを痛感いたします。
 湖東町で生まれてから三十年を迎えた今年、何ともうれしい依頼が舞い込んできました。「アマネの音楽を、湖東中学校の生徒に聴かせてやってくれないか」と。いつの日か生まれ故郷に恩返しをしたいと思っていた僕に、またこんな節目の年に、最高の機会を頂戴しました。来る十月三十一日、五時間目と六時間目の授業時間をお借りして全校生徒の前で歌わせていただきます。湖東中に通えなかった僕が、旧湖東町を背負う若者に全身全霊を込めて歌う異例の出来事になります。僕にとって「~たら」「~れば」が全く必要のない言葉になる日が、もうそこに待っています。
 そうだ、原点に帰ろう。

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湖東中学校芸術鑑賞授業「アマネ」公演
十月三十一日(水)十三時三十分より 東近江市立湖東中学校体育館にて
原則として生徒向けの公演になりますが、公開授業として一般の方も無料でご入場いただけます。授業であることを十分にご理解の上、ご参加ください。お問い合わせは湖東中学校・林栄次教諭(〇七四九‐四五‐〇〇二〇)まで。

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第36回 ~アマネ、初の長浜ライブ~ 2007年9月9日vol.426掲載
 長浜という町は、以前からとても魅力的な町だと感じてきました。いくつの時だったでしょう、母親に連れられて初めて電車に乗って向かった先は長浜でした。できたばかりの長浜城に、ドキドキしたのは幼稚園の遠足の時です。古くは秀吉が、十年ほどしかいなかったにも関わらず、信長の長の字を取って今浜を長浜と名付け、様々な文化や商業を生み出したり、明治時代には鉄道、学校、銀行といった文明開化を先取りしたり、その歴史や風土の奥深さはあの観光客の数を見れば歴然、今もなお長浜は魅力的なオーラを全国の人々に放ち続けています。僕は湖東町に生まれ、多賀町で育ち、米原高校まで通っていたのにその以北というのは意外と伺う機会に恵まれず、何だか悶々とした日々を過ごしてきたわけですが、いつの日か必ず自分たちの唄を、憧れの長浜に響かせたいと願ってまいりました。十数年人前で歌っているのに、長浜で一度も歌ったことがないなんて・・・。
 そんな折、一つの演奏依頼を受けました。何と二十四時間テレビの長浜募金会場で、我々アマネに歌ってほしい、とおっしゃっていただいたのです!未開拓の町、魅惑の町、今まで手の届かぬ存在だった長浜でやっと歌うことができる、本当にうれしく思いました。迎えた八月十八日、当日はうだるような暑さ、全国でもたくさんの方が熱中症で倒れておられるという日でしたが、スタッフの方々は止まらぬ汗を拭いながら、会場の準備を進めてくださいました。僕らも汗だくになりながら、炎天下のステージで演奏を始めました。曳山博物館の前、どうかこの長浜の町に、どうかこの長い歴史の中に、どうかこの深い文化の奥底に響き渡れ、と声を張り上げました。
 およそ一時間、暑い中お付き合いいただいた観客の皆様、スタッフの皆様、どうもありがとうございました。長い間思い描いてきた長浜での初ライブを、皆さんと共に過ごせて本当によかったです。やっと、やっと実現できました。歌い終えて、流しきった汗を拭いながら、とてつもない爽快感を覚えました。まだこの関係は始まったばかり、僕らはまた長浜に帰ってきます。必ず帰ってきますね。やっぱよかった、長浜。



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第35回 ~初の試み、特別先行試聴会~ 2007年8月12日vol.424掲載
 去る七月一日、大阪市内某所にて、我々アマネはニューアルバム特別先行試聴会を行いました。今までリリース前の音源というのは、スタッフや関係者にしかお聴かせしてこなかったのですが、今回の音源には特別な思いもあり、一般の皆さんに様々なご意見を伺いたいと、開催を企てました。
 昨年の春より選曲や構想を重ね、一年に渡って制作してきた音源を、どんな形でご披露すれば皆さんの本音を聞き出せるか、僕たちは思案してきました。一時間のフルアルバムを集中して聴いていただくには、一体どんな状況が最適か?スピーカーよりヘッドフォンがいいか。携帯プレーヤーも流行っているし、なるべくご自身のヘッドフォンで聴いていただこうか。お腹が減ったり眠くなったりしてはいけない、午前中に開催しようか。などなど。ライブでもないし、こんな地味なイベントに本当に参加していただけるのか?という根本的な不安もあったのですが、結果定員オーバーの約三十名の方々にお集まりいただきました。こんなマニアックな会にお越しいただけるのは、およそファンの方のみだろうと考えていたのですが、蓋を開けてびっくり、三割以上の方はアマネのCDもライブも聴いたことがないという方々でした(ファンじゃない方の声を伺えるのはありがたい!)。素敵な出会いと、多彩なご感想に大変感謝いたしました。やはりこんな催しは初めてでした。朝の十時から三十名がヘッドフォンをかぶり、アンケート用紙に向かって、完全に沈黙した状態で会が進むのです。学生時代の試験さながらの光景でした。早朝からお集まりいただき、僕らの新しい音楽を真剣に聴いていただき、試聴後には僕らの音楽を熱っぽく語ってくださいました。アルバムのタイトルは皆さんのご意見から決定する予定です。ご参加いただいた皆さん、本当にご協力ありがとうございました!
 開催の最大の目的は皆さんの第一印象を伺い、今後どういった形で販売活動を行っていけばいいか模索することだったのですが、皆さんの生の感想は、すごく大きな力と勇気を与えてくださいました。これで自信を持ってこの作品を世に送り出すことができそうです。一人でも多くの方に今作をお届けできるように、一生懸命取り組んでいこうと改めて決意いたしました。





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第34回 ~僕がハムだった時代~ 2007年7月8日vol.422掲載
 先日、DADAの読者の方から、ホームページに書き込みをいただきました。その方はハム(アマチュア無線家)だった方で、僕がハム一家の息子であることを二十年前の年賀状で確認され、書き込んで下さったそうです。すっかり忘れていました、僕もハムだったことを。
 父が始めたことで、その後母が免許を取得し、姉と僕も取得し、携帯電話もない時代に、一家は家族間通話無料という偉業(?)を成し遂げました。今から考えると父の趣味を助長する為に利用されただけだった感も否めない訳ですが、アマチュア無線のあった生活が幼少期の僕に与えた影響はとても大きかったと振り返ります。僕は小学三年で免許を取得しましたが、それを皮切りに同級生や先生が取得しました。機械が好きなこと、おしゃべりが好きなこと、見ず知らずの方と交信してみたいという思いは、唄を歌っている今も同じです。
 父のハム仲間の家族と旅行に行った時は、皆が携帯無線を持って行動するものですから、旅館の従業員らは物騒な客だと思っていたでしょう。刑事モノのドラマも流行っていましたし、男の子は探偵やスパイが好きですから、その怪しい世界に憧れた部分もありました。無線を通して怖い体験もしました。滋賀県警は当時アナログ無線を使用していた為、ちょっと改造したアマチュア無線機で警察無線を傍受することができたんですね。時効だと思いますが、ハムの人たちは結構聞いていたように思います。そんな折、滋賀県を含む関西圏でグリコ・森永事件がおこりました。僕が七歳の時です。犯人も同様のアマチュア無線機で警察の動きを傍受しており、劇場のような犯罪を見せつけました。連日の報道、ハム仲間で飛び交う憶測、警察も情報提供を求めて父のもとに何度か訪れることがあり、近くに犯人がいるのではないか、と非常に怖い思いをしました。二〇〇〇年に時効を迎え、犯人が捕まらなかった悔しさと、自分のそばに常にアマチュア無線があったという一つの時代が終わったことを強く感じました。
 現役ハムの方には申し訳ないですが、伝染病のようなもので、不思議な時代でした。自転車にアンテナをつけて走り回っておりましたが、それはもう過去のこと。ただ、そこで得た経験や人の繋がりが、違った形で人生を支えてくれていることに大変感謝しています。

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第33回 ~雨を乞うた日本人~ 2007年6月10日vol.420掲載
 年々異常気象を招いているこの日本の気候、今後どうなっていくのか大変心配です。とりわけ日本には四季というものがあって、折々の季節の中で注がれるべき日の光と雨の水がなければなるものもならない訳で、どこかで水不足と聞こえてきますと、ますます心配になります。逆も然り、雨ばかりが続くのも厄介なものです。中学や高校の頃、長時間かけて自転車通学をしておりましたので、梅雨時の登校は本当に嫌でたまりませんでした。しかしながら家では百姓もしておりましたので、祖父の前では雨の日でも嫌な顔ひとつせぬよう努めていたことを思い返します。その頃は豊作を祈る気持ちよりも、我が身が濡れることへの懸念ばかりだったのですが。やはり照るべき時に照る、降るべき時に降る、何とか日本の環境が戻ってくれることを願うばかりであります。
 現在のように環境が悪化する以前にも、やはり異常気象はあったようですね。日本の各地には雨乞いの歌や儀式がたくさん残っています。昔は自給自足ですから農作物が実らないことは正に死活問題です。慈雨がもたらされなければ、踊り、歌い、雨を乞うたのでしょう。本来、音楽やダンスというパフォーマンスは、こういう出来事に直面した人間の喜怒哀楽を表現したものだと想像します。今はそのほとんどが中央から発信され、ビジネスに基づいたものが氾濫していますが、もっと身近で、生活に直面したことを踊り、歌うことが今の時代にも必要だなぁ、と考えています。
 小学生の頃、同じ大滝小学校の大君ヶ畑分校の児童が踊る「かんこ踊り」を見ました。当時はちょっと滑稽やなぁ、なんて思っていたのですが、大人になりますと踊り始めた先人たちの思いに心打たれます。旧山東町朝日地区をはじめ、滋賀県にも数々の雨乞いパフォーマンスが残っています。科学の進歩はそういう日本人の営みを過去の伝統文化に追いやってしまいがちなのですが、どうも無意味なことだと思えないのです。念ずれば花も開くと。てるてる坊主を吊るしてみたり、八代亜紀を歌ってみたり。どんな形でもいい、それぞれが乞うことで秋に実りを授かれそうな気がするんです。みんなで祈りましょう。日本の梅雨が、今年もしっかり梅雨でありますように。

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第32回 ~8㎝CDだった「あの頃」の音楽~ 2007年5月13日vol.418掲載
 連休も明け、我々アマネのアルバム制作もほぼ大詰め、あと数曲のミックスダウンを残すところまでやってきました。今回のプロデューサー・和田俊輔氏は僕と同い年。アマネは三人とも同い年なので、四人で会議をするとついつい昔の音楽の話になってしまいます。「あの頃のCDは何で売れたんやろう?」、「あの頃は毎月のようにCDを買っていたなぁ」、CDを作る側としては音はもちろんのこと、どんなジャケットにするか、どんなパッケージにするかなど毎日のように思案しているわけですが、その議論の多くは「あの頃」の名曲たちとの思い出を軸に進んでいきます。僕らの「あの頃」とは、一九九〇年から九五年頃にあたるでしょうか。先日和田P邸に伺いますと、大量の8㎝CDが置いてありました。まさに「あの頃」の遺産です。二曲で千円という割高感は否めませんが、それでも手元に置いておきたかったんですよね。
 「リンドバーグ」、中学生の時にハマりました。彦根市民会館にもツアーで廻ってきましたので観に行きました。ヴォーカルのマキちゃんのアイドル性、日本人にウケやすいわかりやすい歌詞とメロディー、バンドが持っているスピード感は今でも通用するものを感じます。和田氏との会話の中でも度々出てきましたので改めて聴きなおしてみると、めちゃくちゃいいんです。懐かしさも手伝って、一日中頭の中でリピート再生されます。最近の音楽が悪質だということは決してないですし、ダウンロードを批判するつもりもありません。が、非圧縮の良質音源と、アーティストのこだわりが垣間見えるブックレットなど、CDというメディアパッケージをしっかり届けていた「あの頃」のように自分たちの音源も世に送り出したいと思うと、自然と葛藤が生じます。今のリスナーはじっくり歌詞を読んだり、コンセプトを汲み取ったり、どんなスタッフが関わっているかを知ったり、そういうことには興味がないのかなぁ。自分の考えは古臭いのかと悩んでしまいますが、歌詞のフォントやブックレットのデザインにわたり、思いやこだわりを込めていきたいんですよね。音がデータとしてやり取りされるだけでなく、作り手と聴き手の人間性でキャッチボールし合えるものが売り買いされる時代が、再び訪れてくれることを願います。「あの頃」のように。

リンドバーグ・アルバム「LINDBERG Ⅳ」(1991)[TKCA-30278]

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第31回 ~走れ!多賀町ナンバー~ 2007年4月8日vol.416掲載
 高校卒業と同時に僕の愛車となった原付、スズキ・セピア号は今年で十五歳。僕が十一年間乗るその前には姉が四年間乗っておりました。現在も現役バリバリ、多賀町ナンバーは今日も大阪市内を爆走中(法定速度は守っています♪)です。原付の十五歳は、見た目的にも体力的にもかなり限界にきています。故障やパンクの度に乗り換えたいなぁ、車欲しいなぁ、とも考えましたが、修理代も毎回数千円で済んできましたし、大阪で車を維持できるほどの経済力もありませんので、大きな傷みに至らないことを感謝しながら乗り続けてまいりました。
 いつものように愛車にまたがっておりますと、友人からこんなことを言われました。
「喜多君が来るの、二つ向こうの信号からわかるわぁ」
えっ?このバイク、そんなにうるさいの??自分ではもう慣れてしまっていましたが、確かにこれはうるさい・・・。夜中の帰宅など近所迷惑になっているかもしれない、と恥ずかしくなり、早速バイク屋さんに預けに行きました。するとマフラーが錆びていてバリバリに割れているとのこと。マフラー交換で二万円ですって。二万円かぁ。十五年間で一番高い修理代です。ちょっと渋っておりますと、バイク屋の主人は言いました。
「このエンジンは凄く良くできているから、壊れるまで乗る方がいいよ。」
「・・・、じゃあ・・・、お願いします・・・。」
 落ち着いて考えたら今新車なんて買えないのですが、判断に躊躇してしまいました。ここに来てセピア号、また大きな山を越えやがったなぁ。どうもこのセピア号とは簡単に縁は切れないようです。長年連れ添ってきたもんなぁ。色んな所へ連れて行ってくれたもんなぁ。
 自分の愛車になって最も静かな音になって帰ってきたセピア号は、今日も大阪の風を切って走っております。もう少し一緒に色んな景色を見ような。雨の日も風の日も、走れ!多賀町ナンバー。

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第30回 ~大人になったことを告げてくれた芝居流通センター~ 2007年3月11日vol.414掲載
 祝連載三十回、そして僕は来月三十歳になります。どっちの三十も想像していなかったのですが、無事に数を重ねられることは幸せなことですねぇ。いつのまにか大人になったものです。中身は子供のままですが、これまでに何度か「大人になったかも?」なんて思う瞬間がありました。恋をした時、酒の味を覚えた時、お金を稼いだ時、初めてタバコを吸った時、昔は食べもしなかった田舎料理がおいしいと思った時もそうでした。そして「デス電所」と出会った時も。
 「デス電所」は大阪を拠点に活動する小劇団。自らを「芝居流通センター」と呼び、芝居はもちろんのこと、ダンス、音楽、映像と、オリジナルのエンタテインメントを一気に展開する集団として人気を得ています。その芝居の中には人間の中の邪悪な部分、卑猥な部分が随所に散りばめられ、子供の時に見た「劇」とは程遠いものを感じました。初めて観たそれは、所謂アンダーグラウンドなもので、世の中にこんな表現があるのかと驚きました。それまでに知っていた「劇」は夢とか希望を説いたもの、明るい未来に導いてくれるものこそがステージだと思っていました。しかし彼らは違った。あらゆる伏線の中で、様々な人間の企みが、訳のわからぬうちに繋がってゆく。徹底的に人を傷つけ、心を裂き、やがて来る完全な暗黒を圧倒的な笑いで吹っ飛ばしていきました。それを自分と同い年の人間が作り、演じているんです。正直うれしかったし、正直悔しかった。夢とか希望とかを直接語りかけないで夢や希望を謳っている「デス電所」と、同じ価値観を持っている自分に気付いた時、自分が大人になったことを感じたのです。自分の腹黒さにも気付いて。
 先日「デス電所」は、井原西鶴の「好色一代男」を披露しました。古典をしっかりと自分たちのリズムに取り込み、洗練された現代感覚に置き換え大成功をおさめました。また一昨年・昨年と公演された「音速漂流歌劇団」は、先日発表された第十三回OMS戯曲大賞を受賞、アンダーグランドから一気にメジャーへと成長を遂げました。あの時僕が嗅いだ大人の香りに、色んな人が反応してきました。同い年ですが、脚本・演出の竹内佑氏を始め、役者のみんなを凄く尊敬しています。これからも大人の中の子供性、子供の中の大人性を類稀な表現力で放っていってくれることと信じています。
 今僕たち「アマネ」は、「デス電所」の音楽家・和田俊輔氏と一緒にアルバム制作を行っています。僕らの音楽を聴いて下さってる方々に、少しでも彼らの空気や才能に触れてもらいたいという思いでいます。完成をお楽しみに。OMS戯曲大賞受賞、本当におめでとう!

デス電所DVD「音速漂流歌劇団」(DDRDVD-03~04)[撮影・編集は喜多によるもの]より

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第29回 ~命の襷を受け取って~ 2007年2月11日vol.412掲載
 正月が明けて数日後、僕のもとに一通のファックスが送られてきました。「娘が病気で他界した」と。その娘というのは、僕らのファンのお一人で、アマネを結成する以前から僕らの音楽を気に入って応援してくれていた方なんです。初めてお会いしたのは今から七年前、彼女は京都の大学生でした。当時僕らは、毎月のように京都でライブをしては、朝まで友人やお客さんと飲んでいました。彼女はその中にいつもいてくれました。お金はなかったですが、打ち上げをするのが当たり前だと思っていて、色んな話をみんなとしていました。彼女は僕らの活動当初からのお客さんでしたし、時にはプライベートなことも話していましたので、大学を卒業されて千葉のご実家に帰られてからも、僕はずっと葉書を送っていました。当時のように電話もメールもしなくなりましたが、すごく大切に思っていた方でした。その彼女が亡くなったとお母さんの文字。放心状態で、何時間も時間が止まりました。なぜもっと話しておかなかったんやろう。なぜもっと会っておかなかったんやろう。お互いに若いし、頻繁に連絡しなくてもそのうち会える、って思っていました。死ぬなんて思ってもみないし。
 お母さんに電話をしました。初めて話しました。一緒に泣きました。彼女を産んだお母さんだけに、真っ直ぐで、誠実で、一生懸命の方でした。彼女はそんなお母さんの価値観を、しっかり受け継いだ人だったと感じました。そんなお母さんより先に逝ったらあかんよ。いっぱい話したいこともあったし、今録音している新しいCDも聴いてほしかったのに。電話を切ったあと、七年前の彼女のアンケートを読み返してまた涙しました。
 彼女はスキルス胃癌だったそうです。健康診断でも発見できず、抗がん剤も追いつかず、急速に転移し、最後は肺まで広がっていったそうです。そんな時、僕らは何ができる?自分の無力さがとても腹立たしい。出会ったらいつか別れがくるのはわかっているけど、何でこんなことになるんかなぁ?なんぼ歌っても歌っても、聴いてくれる人がいなくちゃ、聴きたいと思ってくれる人がいなくちゃ成立しないよ。若いからとか、大丈夫やからとか、いいかげんに過ごしたらあかんよね。
 何もできなくてごめんな。あなたの死を決して無駄にしない。あなたに聴かせたかった唄、これからも一生懸命歌っていきます。安らかに眠ってください。

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第28回 ~二〇〇七年正月、実家のよびしにて~ 2007年1月14日vol.410掲載
 みなさん、あけましておめでとうございます。今年もこうして健康に正月を迎えられたことに感謝します。実質一日だけでしたが、故郷の多賀町富之尾に帰りました。喜多家では昔から正月三日、大瀧祭りの五月五日、地蔵盆の八月二十四日の年三回、「よびし」を行います。つまりは親戚呼び。なぜ「よびし」と言うのかいまだに謎ですが、とにかく喜多家のよびしは親戚付き合いが希薄になったこのご時世においても、三世代に渡る親戚が一堂に会する催しとして続いております。こんなことは当たり前のことと思って育ってきたのですが、どうやら世間では少ないようですね。大きくなってから知りました。僕が年配の人に対して苦手意識がないのも、こういう環境のお陰かもしれません。今回のよびしでも、七十オーバーのおばあちゃまたちと延々話をしていました。
 祖父はもう亡くなったのですが、弟一名、妹三名が健在です。この祖父の妹三名がおもろいんですなぁ。僕はこの三ババを、未亡人トリオと名付けております(愛を込めて♪)。よびしの時に、このおばあちゃんたちに昔の話を聞くのが大好きなんです。尋常小学校のこと、戦時中のこと、京都に女中に行ってた時のこと、結婚した時のこと、何でもかんでもが新鮮で興味深いんです。今回の発見は、それぞれが小学校の時、長姉はゴム靴だったのに下二人はわらじだったということ。こんなこと、どこを調べても載ってないですよねぇ。時代が古いほど貧しいイメージやったのに、戦争に入るまでは豊かやったんですね。そんな発見をしながら、時には同じ話を何度も聞きながら、半世紀近い歳の差を飛び越えてまいります。嫁に出た三人が様々な苦労を乗り越え、夫を亡くし、また生家に戻って子供の時のように、いや、子供の時以上に団欒している姿は、正月を迎えられる幸せを倍増させてくれます。
 僕が大学生の時に、祖父は亡くなりました。もう少し僕が年齢を重ねていたら、このおばあちゃんたちとのようにいっぱい話ができたのに。瓦葺き職人で、芸達者で、頑固で、大酒呑みで、人間思いのおじいちゃん、結局面と向かって腹割って話せなかったなぁ。そんな後悔があるから、みんなと話せる時に話したいんですよね。次に顔を合わすのが法事やお葬式なんて嫌じゃないですか。みんな長生きして、いっぱい話しましょね。
 おじいちゃん、今年の正月も無事によびしが終わりました。みんな元気やったよ。未亡人トリオはまだ死にません。また子供の言い合いしてたもん。おじいちゃんと話せなかった分、次のよびしもいっぱい話しとくわ。今年も喜多家を見守ってね。

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。オフィシャルサイト「唄屋」http://www.uta-ya.com/

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第27回 ~人生のバイブル「まんが道」との出会い~ 2006年12月10日vol.408掲載
 NHKで放映されていた「まんが道」がDVDとして帰ってきました。「まんが道」とは二人で一つの漫画家、藤子不二雄先生の自叙伝的物語で、原作も数々の雑誌に連載され、昭和六十一年に前述のテレビドラマとして製作されました。昭和二十年代後半、プロの漫画家を目指して富山県の高岡市から上京した安孫子少年と藤本少年は手塚治虫先生が住んでいたトキワ荘の部屋を譲り受け、数々の名作を生み出しました。「まんが道」はその頃の漫画家仲間と共に成長していく青春群像が描かれています。小学三年生だった僕はこのドラマに、原作に夢中になりました。なぜ九歳の男の子がこの物語に興味を持ったのだろう、そしてなぜ二十年もの間愛してやまないのだろう。そんな疑問の答えを確かめるべく、二十年振りにドラマを観賞しました。
 現実は小説より奇なり、フィクションのようでノンフィクションであるところにこの「まんが道」の魅力がありました。二人で一つという特異なスタイル、神様のように憧れている手塚治虫先生に実際に接触していく展開、のちにそれぞれが大御所漫画家となるトキワ荘の仲間たちとの出会い、夢のような現実の話だから子供ながらに引き込まれていったんでしょうね。今日日本の巨大産業の一つに数えられる漫画文化の発展を、作家である満賀道雄少年(安孫子素雄先生がモデル)の目線で描かれているところから、自然と等身大の自分と重ねてみたのかもしれません。この作品を観て僕自身が「まんが道」を歩こうとは思わなかったですが、こんなふうに大きくなりたい、こんなふうに夢を掴みたい、と思ったことは確かです。「まんが道」のような自分らしい、自分にしかできない道を僕も見つけたい、と思ってきました。ドラマを観直しながら、時代を越えて、年齢を越えて、二十年前の清々しい気持ちを思い出しました。この気持ちは僕の中で二十年間変わることがなかったことも発見したのでした。
 今、主人公である満賀道雄や才野茂の年齢を越してしまった自分がいます。年齢は越してしまったけれど、あの時の夢はずっと同じです。時代背景も生活環境も「まんが道」の世界とは全く違うけれど、「まんが道」こそ僕の人生のバイブルだと感じました。どんな困難があっても、この作品に帰ればいつでも自分のスタートに戻れる気さえします。いくつになっても夢はあきらめられません。生涯離せない物語との出会いに感謝です。この作品が皆さんにとっても、自分の道探しのヒントになればいいな、と思いました。

DVD「まんが道Vol.1」/DVD「まんが道Vol.2 青春編」

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第26回 ~きみもミュージシャン! 子供たちとの唄作り~ 2006年11月12日vol.406掲載

 先日、ご縁あって神戸市立太山寺児童館というところに伺いました。児童館の先生から「アマネのライブを子供たちに見せたい」というご依頼をいただいたのです。長年児童と触れ合ったことがないし、また自分たちの唄が子供たちに理解できるほど簡単なものではないと思うので、「大丈夫かなぁ」と正直心配していました。先生に「言葉が伝わらなくても、一生懸命さを伝えてあげてほしい」と仰っていただき、それなら何か伝えられそうだとお引き受けしました。児童とのコミュニケーションが成立するかどうかは不安でしたが、せっかくの機会なのでライブのみならず、子供たちと一緒に唄作りをすることにしました。題して「きみもミュージシャン」!
 三十名近く集まってくれた小学一、二、三年生、確かに自分がその年齢だった頃以来の交わりでした。大人しく聴く訳ないわな。しかしライブを進めていくに連れてだんだん興味津々の瞳になっていくのがわかるんです。こちらは普段のライブ同様、汗をかきかき大声張り上げて歌うんです。すると子供たちも興奮した様子で僕らを凝視しました。当初の不安は飛んでゆきましたね。そして唄作り。児童館にあった大きな犬のぬいぐるみを題材にして、その犬の名前や特徴を尋ねていきました。子供たちの発想は豊かですね。僕らが想像しないような言葉が飛び交います。子供たちの言葉をまとめ上げ、メロディを付けて完成!こんな夢のある唄ができあがりました。(ちなみに犬の名前は「ポッチャマ」に決定!)


「ポッチャマのうた」

つぶらなひとみのポッチャマは いつものんきにわらってる
ふんだりけったりしちゃうけど きょうもいっしょにあそんでね
ワンワンワン ワワンワワン
みんなをのせてそらをとぶ きょうもポッチャマはそらをとぶ
ワンワンワン ワワンワワン

 僕たちアマネは、全員で最後に合唱した「ポッチャマのうた」をCDにし、参加してくれたみんなに贈りました。この日の記憶がいつまで残るのかわかりませんが、子供たちの創造のきっかけの一つになってくれればいいな、なんて思いました。みんなとの出会いで、お兄ちゃんたちはいっぱい力をもらったよ。ありがとう!


最後に全員で合唱し、CD化した「ポッチャマのうた」はこちら→

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オフィシャルサイト「唄屋」http://www.uta-ya.com/

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第25回 ~アマネ、デビュー五周年を迎える~ 2006年10月8日vol.404掲載

 僕が活動しているアコースティックユニット「アマネ」が、十月八日でデビュー五周年を迎えました。ファーストCD「理 -コトワリ-」をリリースし、京都東山の法然院でお披露目ライブを行ったあの日から五年、この節目の時期に素晴らしい機会を二つ頂戴しました。
 まずは九月三十日、湖北町上山田にて開催された「収穫祭コンサート」に出演させていただきました。松明の門に誘われた百名近い方々と満天の星空のもとで歌い、自然の恵みと人の愛情を大いに満喫させていただきました。歌い終わると鈴虫の音をBGMに田舎談義や音楽談義に花を咲かせました。岩魚の塩焼きに手作りピザ、新鮮な枝豆を頬張りながら地酒を一杯、二杯と・・・。丸五年にして初めて、「これや!」というものに出会えた気がしました。人と美味と自然と唄と。本当に素敵でした。アマネが目指していた時空間がここにありました。
 翌日の十月一日、僕たちアマネは「タルタルーガ」というバーの開店をお祝いするべく、豊郷町吉田に向かいました。こちらのバー、古い蔵を『快蔵』(豊郷流・蔵の改造!)し、県立大生が経営していくという面白い空間なのです。僕たちのオープニング記念ライブには地元の方や、滋賀を第二の故郷にされている学生の方がたくさん集まってくれました。人が手入れをしなければ傷んでいくばかりの蔵、この蔵ができて何年経ったのかは知りませんが、この蔵の歴史の中で一番大きく、たくさんの声が響き渡った夜になったのではないでしょうか。若い力が古い歴史に命を吹き込み、新しく大きな息吹が始まった瞬間に立ち合わせていただくことができました。
 五年の活動の節目の瞬間、一つの達成感を覚え、また一つの始まりを決意しました。これまでとこれからの縁に乾杯!原点を忘れることなく、やっぱりこれからも人間臭いことを歌っていこうと滋賀の空に誓いました。

9/30、アマネ湖北町上山田「大戸洞舎ほっこりおせんどさん」にて


10/1、アマネ滋賀県豊郷町「タルタルーガ」にて


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第24回 ~二十代最後の夏が、終わった~ 2006年9月10日vol.402掲載
 残暑が続いておりますが、今年の夏も終わってしまいました。忙しかったのであまり気にもしていなかったのですが、考えてみると二十代最後の夏が終わってしまったようです。海にもプールにも行かないで終わりましたねぇ。と言っても、もう何年もそういったところには出かけていないのですが・・・。「二十代最後」という響きがやけに応えます。ハンカチ王子の夏がキラキラしていて羨ましい!そんなに好きでもない夏、でも夏が終わると何となく寂しい。夏休みも、キャンプも、虫捕りだってなくなったのに。これ、何でなんでしょう?
 吉田拓郎の曲に、『夏休み』という唄があります。この唄、灼熱の中で楽しいばっかりの夏休みを歌ってないんですね。終わってしまった夏休みを、「それでも待ってる」って歌ってるんですよ。「二十代最後の夏」を終えてしまった僕は、もしかすると一生夏休みを待つのかもしれませんなぁ。哀愁漂う名曲です。
 今年は幸い、奈良県の五條市で行われた「吉野川祭り」にて歌う機会をいただき、ゆったりと夏祭りを楽しませていただきました。踊りがあり、花火があり、夏の醍醐味を堪能することができました。『夏休み』が収録されている『元気です。』というアルバムには、他にも秀作が数多く収録されているのですが、その中の『祭りのあと』って曲を、花火のフィナーレを見終わった後に思い出しました。楽しかった時間に戻りたい、だけど戻れない。何かで紛らわせたい自分が一人居る・・・。この曲もこの季節にグッときますね。秋の楽しみもたくさんあると思うのですが、幼少時代の夏に戻れない寂しさは、何故か歳を重ねる毎に増すばかりです。そんなことを言っても、年齢の問題だけはあとの祭りですが・・・。

よしだたくろう「夏休み」「祭りのあと」アルバム「元気です。」(1972)より

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9/30(土) 湖北町・大戸洞舎「収穫祭コンサート」アマネ出演

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第23回 ~お盆にリンネを考える~ 2006年8月13日vol.400掲載

 先日、毎年恒例の故郷・多賀町のステージに立ちました。毎年地元の人たちの声援をいただいて夏のスタートを切れるのは、とてもありがたいことです。感謝。
 大阪に戻りますと、映画「転生 -TENSEI-」のDVDが東京から送られてきました。春に僕たちアマネが一生懸命取り組んだ作品です。六月に上映され、早速商品化されました。アマネにとって映像作品への楽曲提供は今回で四回目になりますが、今回は主題歌に加え、本編の挿入歌や効果音に至るまで書き下ろしさせていただいたので、大きな思い入れのある作品となりました。この「転生 -TENSEI-」、主人公は三人の女性なんですね。違う時代に生きたこの女性たちは血縁もないのに記憶を引き継ぎ、同じように若くして逝きます。まさに生まれ変わりという。ちょっと考えさせられますねぇ。怖い映像も出てきますが、夏なんで、ヒヤリとしながらご覧いただけると幸いです。
 作業が東京と大阪ということで多少不都合はあったのですが、元木隆史監督とは熱い意見交換をしながら、物語のテーマを掘り下げていきました。毎回、電話が溶けそうなくらい白熱しました。彼とは二度目のお仕事になりますが、ご一緒させていただく度に大きなテーマを与えられてる気がするんですね。それも結構大きくて、人生を考えさせられるような。そんな中で今回は「リンネ」という主題歌を書かせていただきました。偶然のように過ごす毎日が実は必然であったり、必要とされて誰かと出会ったり、バラバラの断片が見事に繋がったり。映画に出てくる女性を見ながら、実は自分は誰かの生まれ変わりなのかなぁ、と考えさせられてしまいました。前世とか別段興味がないし、曽祖父の死と入れ替わりで生まれてきたけど、記憶や性格を引き継いでるわけではないし。でも何かこの映画を通して、自分の「生」を様々な角度から見てみることを教わりました。
 お盆にはご先祖様が帰って来られるというので、DVDを観ながらアマネの「リンネ」を聴いてもらえるとありがたいです。仏さんと一緒に。

アマネ「リンネ」映画「転生 -TENSEI-」(2006)より

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。
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9/30(土) 湖北町・大戸洞舎「収穫祭コンサート」アマネ出演

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第22回 ~雨の日に思い出す、山賊の歌~ 2006年6月25日vol.397掲載

 この時期になりますと、「♪雨が降れば・・・」で歌いだされる、『山賊の歌』を思いだします。この曲を知ったのは小学一年の頃です。当時僕は湖東町(現・東近江市)の長(おさ)というところに住んでおり、湖東第三小学校に通っていました。小学二年生までこの地で生活をしたのですが、この頃の出来事を今でも結構覚えてるんですよね。幼かったし、時間も経過しているのですが、その後多賀町の学校に転校するという大きな出来事もありましたので、事細かく思い出されます。
 湖東第三小学校では毎年文化祭が行われ、各学年で一つの出し物を作り上げていました。『山賊の歌』はその文化祭で、五年生の出し物の劇中で歌われました。七歳ながらに、「小学校で山賊とか取り上げていいのか?」なんてことを思ったりしたもんでした。小学一年生にはかなり衝撃的な曲でしたね。サビの節である「♪ヤッホー、ヤホホホー」というのがとても不思議でしたし、内容がとても悪い人たちの詞とは思えなかったんです。観劇してこの曲の虜になり、以来二十年以上僕の頭をぐるぐる廻る一曲となっています。幼い頃の記憶というのは怖いもので、この曲の印象のおかげで、山賊を怖い人達だと思ったことがないんですね。歌詞からのイメージで、「山賊って、寂しい人達なのかなぁ」と思っていました。
 改めてこの曲を検証しますと、非常に哀愁のある日本的旋律で、社会の王道から外れてしまった人達の孤独な心情が読み取れ、楽曲的にもとても秀作であることがわかります。よく七歳でこの曲を気に入ったな、と感心します。「いい」と思う感覚はその時その時で異なるのでしょうが、この曲を「いい」と思った自身の七歳の感性を称えたいと思います。雨の日になれば思い出す、二十年来の付き合いの一曲でした。

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。
オフィシャルサイト「唄屋」http://www.uta-ya.com/
アマネが主題歌を担当した映画「転生 -TENSEI-」7/21(金)DVDリリース
7/29(土) 多賀町・藝やカフェ横野外特設ステージ「多賀大社萬燈祭 迎夜祭」アマネ出演

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第21回 ~僕らを突き動かす、手造りの魂~ 2006年5月28日vol.395掲載

 滋賀県のお隣、岐阜県は可児市に、僕がお世話になっているギター工場があります。職人三十名、日産二十本の純国産工場「ヤイリギター」です。僕が高校生の時、憧れのポール・マッカートニーが世界ツアーでヤイリギターを使っていまして、大学受験で東京に行った際にたまらずポールモデルを買ってしまったのがヤイリとの始まりです。余談になりますが、東京受験は全滅、宿泊グッズは宅急便、受験資金を投入して買ったそのギターだけを大事に抱えて多賀に帰った僕の行動を、長年両親は「ヤイリギターを買いに行っただけの東京旅行」と嘆いておりました。購入直後、卒業記念に彦根市民会館で開いたライブでそのギターを早速使用、使い易さと音の良さに魅せられ、ヤイリの魅力にどんどん引き込まれていった訳です。
 数年後、僕はヤイリ製のWネックギターを購入しました。使用方法を相談しようと、大阪に来られていたチーフクラフツマン・小池健司さんを訪ねました。小池さんは世界のトップアーティストの製作を担われ、最近ではビギンが考案した「一五一会」という四弦のギターを実現されました。世界を相手にされている方ですので少々ビビっておりましたが、大変気さくな方で、それからことあるごとに小池さんのお世話になっています。
 先日も春のライブが終了し、気になっていた部分を診てもらいました。大変お忙しい方なので、「一ヶ月先まで時間がありますので、ご都合のいい時にお願いします」とだけお伝えしておりました。「そりゃ助かる・・・」なんて言っていただいていたにもかかわらず、三日後にはお伝えしていた箇所のみならず、完全なオーバーホールをして送り返してくださいました。うれしくて泣きそうになりました。
 僕はありがたいことに、自分の仕事道具を作ってくださった方々を知っています。そして、その方々の技術やこだわり、愛情や優しさを知っています。ヤイリの手造りの魂は、日々僕らの唄となり、みんなの生きる力に繋がっているのです。今年二月に定年を迎えられた小池さん、本当に長年ご苦労様でした。これからも様々な形でメイドインジャパンの技術と心を伝えていってくださいね。

喜多充:湖東町(現・東近江市)生まれ、多賀町育ち。
アコースティックユニット「アマネ」を中心に唄屋業を営む。
オフィシャルサイト「唄屋」http://www.uta-ya.com/
アマネが主題歌を担当した映画「転生 -TENSEI-」6/3(土)~公開、7/21(金)DVDリリース
7/29(土)多賀町・藝やカフェ横野外特設ステージ「多賀大社萬燈祭 迎夜祭」アマネ出演決定

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筆者、ヤイリギター小池氏と
第20回 ~サーンヨーレ、サンヨレヨー~ 2006年5月14日vol.394掲載

 僕の地元・多賀町大滝地区では、毎年五月五日の子供の日に、大瀧神社古例大祭が行われます。十五弱の字が毎年交代で神輿を担ぐのですが、昨年僕にも神輿担ぎのチャンスがまわってまいりました。子供神輿以来、十六年振りの神輿でした。日本全国にいくつくらいのお宮さんと、いくつくらいのお祭りがあるのか知りませんが、それだけの数の祭囃子や、掛け声が存在しているんでしょうね。その中でも大瀧神社の掛け声は、独特な掛け声の一つだと感じています。
 「サーンヨーレ、サンヨレヨー」、これが大瀧神社の掛け声です。ね、ちょっと変わってるでしょ?この掛け声を使っているお宮さんは、他にもあるのでしょうか?子供神輿の当時は訳もわからず、言われるがままに吠えて(?)おりました。が、大人になって「さぁ寄れ、さぁ寄れよー」であったり、「幸寄れ、幸寄れよー」という語源からの掛け声であることを知りました。なんと。素晴らしい意味があったんですね。意味を知りますと、その言葉を発する際の気持ちが全く違います。僕の中での神輿担ぎはやはり「サンヨーレ、サンヨレヨー」でありまして、一生「ワッショイ」ではない訳です。地域ならではの独特の文化、ずっとずっと守っていきたいですね。
 ちなみに日本で最も一般的な掛け声、先述の「ワッショイ」。これにも色んな説があるようですが、一説によりますと「和、背負い」や、「輪、背負い」が語源と言われております。なんと。これまた素晴らしい。意味のよくわからない日本語は年齢を重ねても多々ございますが、僕たちの先人達はよく考えてるなぁ、と感心しきりです。(この説が間違いであっても、この説を唱えた人でさえ素晴らしいと思います。)
 皆さんのお近くのお宮さんからは、どんな掛け声が聞こえてきますか?意味のわからないその節に、呪文のようなその節に、意外な言葉が隠されているかもしれませんよ。

筆者、昨年の大瀧神社古例大祭にて


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第19回 ~日本語ロックのはじめ~ 2006年4月9日vol.392掲載

 今、当たり前のように街に溢れているロックミュージック、僕にとっては必要不可欠な存在ですが、このように当たり前の文化になったのも、そんなに古い話ではないんですね。何せ「日本語のロック」はありえなかった訳ですから。
 今から四十年前、アメリカ人やイギリス人が歌うロックやフォークが日本に入ってきて、やはりそのサウンドを日本語で歌うことには懸念があったようですね。ロックとは英語あってのもの。日本語で歌うのは歌謡曲だと。今では考えられない論争があったようです。日本のロック草創期において、日本語のロックを確立した彼らもまた、当時